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イザヤの神との出会いと召命 イザヤ6:1~13 2016/2/18
イザヤは聖なる神に出会い、預言者としての召命を受けた。私たちもひとりひとりイエス様により神と出会い、遣わされたところで神の栄光を現すように召されたものである。
Ⅰ 主の栄光ときよさ(主の幻)に触れたイザヤ 1~5節
イザヤが預言者として召されたのは,ウジヤ王の死んだ年であるから,前740/739年であろう.繁栄をもたらした王がなくなり、国がこれからどうなっていくのか?神殿に祈りに行きそこで初めて神に出会った。イザヤが見せられた幻は,権威を示す王座に座っておられる主(〈ヘ〉アドーナーイ)なる神であった.〈すそは神殿に満ち〉(1)という表現も,立ったり飛んだりしているセラフィム(2)も,栄光と威厳に満ちた聖なる神の臨在を象徴している.セラフィムは,ケルビム(参照エゼ10章)と同じように御使い的存在で,神の臨在を守護するものと考えられていた.しかも,イザヤが聞いたのは,徹底的に聖である神の栄光が全地に満ちわたるとの大きく響くセラフィムの叫ぶ声であり,それは宮の敷居の基が揺らぐほどのものであった.〈煙で満たされた〉(4)との表現も神の栄光を表している
イザヤの認罪 5節
5節は,それに対するイザヤの反応である.それは,聖なる神の前に立たされた戸惑いに満ちた嘆きのような思いでもある.事実ここでも「ああ」という表現が見られる(〈ヘ〉ホーイ,参照5:8).イザヤは自分の汚れた姿,神をあがめるにふさわしくない人間としての存在,自分の弱さをいやというほど知らされたのである.「こんな自分は,それほどに聖なる神の御用に預言者/代言者としてふさわしくない」との畏れに満ちた戸惑いである。自分は何者でもなく、自分には何も無いことを悟り、完全な服従を持って神を仰ぎ、神の恵みと憐れみに徹底的により頼むこと。それは聖い神に触れた時のイザヤの姿であった。
Ⅱ 罪の贖い(聖別) 6,7
しかし,戸惑うイザヤに見せられたものは,祭壇から取られた燃え盛る炭火を持って自分のほうに飛んで来るセラフィムであった.これは全焼のいけにえの祭壇,または香をたく祭壇であろう.もちろん,火はまさに汚れを除くものであり,神の聖を示すものである(33:14,申4:24,ヘブ12:29).6節に次いで7節は,セラフィムがその炭火をイザヤの口につけると同時に,語りかける声を聞いたことを告げている.幻と言葉による召命である.それは罪が贖われ,汚れが除去され,聖なる神の御前に立ち得る者,その御用に預言者として聖められたとの宣言であった.聖くなければ,神の御用に立つことは出来ない.燃える柴を見,召されたモーセも,自分の足の靴を脱いで,聖なる場所,神の御前に立ち得たのである(出3:1‐6)いけにえが焼かれて炭となったもの。それはいけにえとしてささげられたイエス様の十字架を表わすもの 主イエス様の十字架により私たちの罪は覆われた。主は犠牲を払って贖ってくださった。それは愛の故!私のすべての罪のけがれもすでに十字架によって完全に清められている。
Ⅲ 主の派遣 8~12
イザヤは主の派遣の声を聞いた(8).〈だれを遣わそう.だれが,われわれのために行くだろう〉(8)との主の声であった.戸惑いを覚えたイザヤであったが,その時点では〈私を遣わしてください〉と言い得たのである。 9‐13節は,そのイザヤに対する派遣の言葉であり,彼に与えられた使命である.神の召命に対するイザヤの服従が明言された時,神は「行け」との使命をイザヤにお与えになった.神に用いられるには,「はい,ここにおります.私を遣わして下さい」との服従の決断を明らかにすべきである。
しかし,イザヤに与えられた使命は決して安易なものではなかった.なぜ?いつまで?とイザヤ自身も考え込んでしまうような真理であった(9‐10).「よく聞け.そして悟れ」というのではない.「民の心を,その耳を,その目を神のメッセージに向くようにせよ」というのでもない.なんと不可解な言葉であり,命令だろう.そして,なんと語り告げがたいメッセージであったことか.聞き続けさせても,神が主権のもとで定めておられることを人間的な判断によってわからせてはならない,自分勝手な理解をして心に安心を得させてはならない,というのである.
「人の生きる目的は神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶこと」
私たちは、それぞれに神の召命を受けている。その遣わされたところで神の栄光を現し、神を喜ぶことである。農夫、ビジネスマン、主婦、学生、etc
祈り:天の父なる神様。どうか私の遣わされたところであなたの栄光を現し、あなたからの使命を果たすことができますように助けてください。アーメン
あなたの栄光を現す者として歩めるように助けてください。どのようにしてあなたの栄光を現せるか教えてください。アーメン