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キリストの御名の力 使徒3:1~16  2015年4月16日

 

ペンテコステの日に3000人が救われ初代教会が誕生しました。その後、ユダヤ教指導者による迫害が起こりペテロやヨハネたちリーダーは逮捕されます。その迫害のきっかけとなったのが今日の聖書の個所の奇跡、生まれつきの足なえの男の癒しでした。天に昇られたイエス様は弟子たちを通してみわざを行われ続けました。そして今日も信じる者達を通して働いておられるのです。

 

Ⅰ 神様は祈りの人、愛の人を用いてみわざを行われます。1,4節

 

  •  ペテロとヨハネは祈りの人でした。祈りを重んじることです。

その奇跡は祈りに宮に行く時に起こった奇跡でした。そしてそれをきっかけに5000人の救いが起こります。 良い習慣は良い人生を作ります。人は弱いもので、いつか時間があったら祈ろうでは人は祈れません。祈りを後回しにしてしまいます。時間を決めて祈ることは恵みの手段です。当時のユダヤ人の祈りの習慣として9時、正午、3時の祈りがありました。ペテロとヨハネはユダヤ人の習慣に従って午後3時に祈りのために宮に昇って行きました。絶えず祈る。また時を定めて祈る。それが重要です。例えば朝起きてその日一日のために主の導きと守りを祈り、昼に主の前に退き癒しと力を頂き、夜にその日一日を振り返り、感謝と悔い改めの時、委ねる祈りを習慣化することです。

 

  •  ペテロとヨハネは憐れみの人(愛の人)4節 苦しむ者に対する関心と愛がありました。

ペテロたちには足のなえた人への関心と愛がありました。ペテロとヨハネは彼をじっと見ました。そしてこの人の根源的な問題を解決したのです。動機は愛でした。愛がなければすべては無益です。そこを沢山の人が通って行ったでしょう。小銭を上げる人がいたとしてもその男を見つめて声をかけた人はおそらくいなかったでしょう。愛は関心です。相手の幸せを願う心です。あまりにも自分のことで頭がいっぱいであれば周りの人の必要や痛みや苦しみについて思いやることはできないでしょう。まず、自分の周りをよく見てみてください。関心を払ってください。

 

Ⅱ イエスキリストの御名の力 6~8節 信仰

 

 主イエス様は天においても地に於いても一切の権威を持っておられます。そのイエス様が今ペテロたちを通して働いておられるのです。「私にあるもの」とは何でしょうか?弟子たちが持っていたもの、それはキリストの御名の力でした。クリスチャンが持っているものそれは聖霊の力。人々を罪と滅びから救う力です。また癒しの力です。金銀があってもなくても構いません。神様がその人を用いられるのに妨げはありません。大切なのはクリスチャンとして持っているべきものを持っているかどうかということです。それはイエス様のみ名に対する信仰です。神様は生きておられて私たちの必要を満たし、私たちの問題を解決する力があるのです。絵に描いた餅ではお腹を満たすことができません。神様の愛と知恵と力を信じて具体的にイエス様のみ名で祈り求めることです。

 

Ⅲ イエス様に焦点、フォーカスを 12、16節 (謙遜)

 

この奇跡を見て驚いた人々はいっせいにペテロたちのところにやって来ました。しかし、ペテロは自分にではなく、イエス様に目を向けさせたのです。これこそ神に用いられる大切な要素です。そのような人は常にイエス様に栄光を帰すのです。イエス様に目を向けさせるのです!しもべが主人の栄光を奪うでしょうか?栄光を受けるべきは主イエスです!主役はイエス様です。イエス様は全人類の罪を購い、死んでよみがえられました。そしてやがて再び来られる王の王、主の主です。イエスさまこそが栄光・尊厳・誉れを受けるべきお方なのです。

私達の心を点検してみましょう。私は「御名が崇められる」ことを求めているのか?それとも自分が認められ評価されることを求めているのか?イエス様を指し示しているか?それとも自分に注意を向けさせていないか?

 

祈り:天の父よ。私を通して働いてください。愛の人、祈りの人になれるように助けてください。出会う人にイエス様のみ名の力を証しさせてください。アーメン

キリストの御名の力

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