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「神様に義と認められた取税人」ルカ18:9~14 2015/12/03
18:9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
* イエス様の例えの背景 自分を義人だと自任する人。他の人々を見下している者。まさにパリサイ人のこと。
1 パリサイ人の祈り 9~12
18:10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
彼こそは誰が見ても宗教に熱心な敬虔な人に見える。しかし、イエス様は心をご覧になるお方。彼は「神よ」と祈ってはいるが神の前に出てはいない。神の宮に行きながら神と出会っていない。人と比較し自慢しているだけ。神の前の自分の本当の姿を知らない。神の憐みと赦しを必要とする自分のことがわからない。言葉で感謝はしているが神の憐みと赦しを知らず、本当の喜びと感謝を知らない。このパリサイ人のように自分を義とし、他の人々を見下していないか?パリサイ人の何が問題か?自分を義とし、他の人々を見下す。神おひとりが正しいお方。義人はいない一人もいない。自分も神の憐みと赦しを必要としている罪びとの仲間。「キリストが代わりに死んでくださったほどの人を」ローマ14:15「神の似姿に似せて作られた人間を」見下し、裁くときに私は神の心から遠く離れている。
Ⅱ 取税人の祈り 13
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
彼は周りの人と自分を比べてはいない。彼はただ神の前に出ていた。そして彼の祈りは聞かれた。御心にかなった祈りは必ず聞かれる。悔いし、砕かれた心。ダビデの祈り
詩篇51:17 神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。預言者ナタンにその罪を指摘された時、ダビデは何の言い訳もせず、周りや人のせいにもしないで自分の罪を認めへりくだった。取税人の信仰の何が良い点か?それは信仰の祈り。へブル11:6また御心にかなった祈り。
マルコ2:17 イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
Ⅲ 謙遜は祝福のカギ
18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
飼い葉桶に宿られたイエス様 謙遜は主のご性質。イエス様に倣うと言うことは謙遜を身に着けること。それもまた愛の姿である。
Ⅰペテロ5:5 同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。
祈り:天の栄光を捨てて人となられたイエス様。高慢な私の心を砕いてください。遜りを教えてください。アーメン