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「富める青年の欠けたもの」マルコ10:17~31 2015/11/12

 

富める道徳的な青年がどうすれば永遠の命を得ることができるかとイエス様に尋ねた。すべてを捨ててついてくるように言われ青年は悲しみながら去って行った。質問:この青年にかけていたひとつのものとは何だと思いますか?

 

Ⅰ 救いは私たちの行いではなく、イエス様に対する信仰 17~22節

青年の間違いは何かをすることによって永遠の命を自分のものとして受けると考えていた。そのために一生懸命律法を守っていた。しかし、それでも確信がなかった。満たされなかった。欠けているつのこととは何か?それこそは永遠の命を得るために必要なただ一つの事。それはイエス様について行くこと。イエス様を信じて従うこと。青年は顔を曇らせ、悲しみながら、イエス様の元を去った。この出来事は,世の富の危険性を教えるきっかけとなった(23‐25).富める者が神の国に入ることは難しい.この教えに弟子たちは驚いた.なぜなら,ユダヤ人は,繁栄は神の好意と祝福のしるしであると理解していたからである(申28:1‐14,ヨブ1:10,詩37:25,128:1‐2).だが,イエス様の教えでは,視点が異なる.神の国を目指す時には,富や生活の繁栄ではなく,「まず神の国とその義とを第1に求めるべきである」(マタ6:33).そして,この優先順位を崩す最大の危険は,世の富を慕う心(世の欲)である.心が世の富を慕えば,当然,それを愛し,それに依存し,仕えるようになる(マタ6:24).その過程で,まかれた御言葉の種は行く手を阻まれ,実を結ぶことが出来ない(マコ4:19).全世界を得るような富であっても命を買い戻すことなど出来ない(8:37)のに,人は富こそが命を豊かにし,幸せの目標であるかのように錯覚する

 

Ⅱ 神の全能 23~27節

救いは神のもの。それは神の奇跡。子供でも入れる神の国に,裕福で道徳的に熱心な青年が入れない.しかも,その可能性がらくだ(パレスチナで最大の動物)が針の穴を通る可能性よりも少ないとなれば,〈だれが救われることができるのだろうか〉(26).イエス様は弟子たちを〈じっと見て〉救いの教えのすべてを総括された.救われる(神の国に入る・永遠の命を受ける)ことは,人には不可能なことである.それは,金持であろうとなかろうと,またなし得るすべてをもってしても,人間的な事柄を頼みとするなら(参照ピリ3:3),不可能である.救いは,ただ神の可能性に,すなわち神の力と恵みに根拠を置き,それに信頼する者に与えられる神の賜物である

 

Ⅲ 主の豊かな報い 後のものが先になる。28~31節

財を捨てることが出来ずに去った青年とは対照的に,12弟子は何もかも捨てて従って来た。それを誇示するかのように,〈ご覧ください.私たちは……〉(28)とペテロは言った.

従うために自分で捨てるものがあり,迫害の中で無理やり奪われるものがある.しかしイエス様は,それらの犠牲をはるかに超える報酬を約束された(30).今の時代には,新しい神の家族と新しい使命が与えられ(参照3:31‐35),来るべき世では永遠の命を受けるのである。弟子たちの心は躍った.だが,はやる心に,イエス様は1つの警告を与えられた(31).マタ21:31では,「先の者」とは祭司長や民の長老を指し,「あとの者」とは取税人や遊女のような罪人を指す.ルカ13:30では,「先頭の者」はユダヤ人を,「しんがりの者」は異邦人を意識している.だが,ここでは,〈先の者〉は先頭切って,何もかもを捨ててイエスに従って来た12弟子を指し,〈あとの者〉は,従う群れのしんがりの幼子,あるいは9:38の人物,バルテマイ(10:46‐52)などを指す.31節は,9:34で「だれが一番偉いか」と議論し,今ここで去って行った青年を尻目に得意げに胸を張る弟子たちへの警告である

主のことばを謙遜に聞き、注意したいものです。

 

祈り神様。私が救われたのは一方的なあなたの恵みです。謙遜にあなたに従う者とならせてください。あなたの豊かな恵みと報いに感謝します。アーメン。

「富める青年の欠けていたもの

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