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創世記3:1~13 2013年4月10日

 

「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。」と神様ははっきりとアダムに語られた。「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」と言われた。それにもかかわらず人は神の言葉に背き、人類に罪と死が入ってきた。禁じられている善悪の知識の木の実を食べるということは神ではなく自分が善悪の判断の基準になるということ。創造者である神様を退け、また神様を神様とせず、被造物である自分が神の位置に立つということである。

 

 

1 サタンの誘惑の狡猾さ

「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」とサタンは禁止に目を向けさせる。しかも誇張して「園のどんな木からも」と。あたかも神様がケチで意地悪だと言わんばかりに。絶対にサタンと対話してはならない。サタンは長年生きてきた狡猾な蛇。神の御言葉に堅くたち宣言し、戦え。サタンは「あなたがたは決して死にません。」と神様の言葉を否定する。「必ず死ぬ」vs「決して死にません。」誰の言い分を聞くのか。それは滅びの道と命の道の選択である。

 

 

2 罪を犯したアダムとエバ

3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

ここには罪に負けるプロセスがある。 見た(視覚)→ 好ましかった(感情・心の思い)

→ 食べた(行動)自分にとって神様から引き離そうとする誘惑から身を避けること、距離を置く事。あなたにとって見続けてはならない物は何ですか?良いものに目を留めること。思いを感謝に向けること。

 

 

3 罪の結果 (死と神との断絶)

神様の命令を破り善悪の知識の木の実を食べた時、彼らの目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。目が開かれた結果は、自分の裸の恥を知ること。もはやかつてのようにありのままではいられない。神のようになろうとした結果は惨めな自分の姿を知ることだった。裸の恥を隠すため彼らはいちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。しかし、それは不完全なもので裸の恥を完全におおうことは到底できなかった。しかも、主の御顔を避けて園の木の間に身を隠すようになる。罪を犯すまでは神様との交わりは喜びだった。しかし、今は恐れとなってしまったのだ。神様に問われた時、アダムは妻のせい、エバは蛇のせいにし自分の責任を認めないし、悔い改めようともしない。わたしは悪くないと自分の責任を認めず人のせいにする。御言葉に背き食べたのは他の誰でもない。自分自身。人は自分の行動に責任がある。環境や人のせいにしてはならない。

 

 

祈り

神様、私が見てはならないものを見ないように、聞いてはならない言葉を聞かないようにお守りください。あなたを仰ぎ見させ、あなたの御声をお聞かせください。アーメン

「悪魔の誘惑とアダム、エバの失敗」

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