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恐れることはない マルコ6:45~52 2015/11/5
マルコ6:48 イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。 イエス様は何故、通り過ぎるつもりだったのか?何のために近づいたのか?
Ⅰ 祈られるイエス様、ご覧になられるイエス様 45~48節
イエス様はパンの奇跡で興奮している群衆を解散させ、また弟子たちをそこから離れさせた。(奇跡にだけ目を留め、救い主イエス様の本質を見誤らないため)それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。イエス様は祈りを重んじられた。しかし、イエス様は片時も私たちのことを忘れることはなく、私たちのことをご覧になっている。私たちの困難も知っておられる。イエス様は大祭司として今も私たちのために祈られ、また私たちのことをご覧になられる。それは恐れるべきことではなく、平安なことである。
Ⅱ イエス様の顕現と弟子たちの恐れ 68,69節
6:48 イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。6:49 しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた。
* 何故、通り過ぎるつもりだったのか?何のために近づいたのか・・・?湖の真中に出ていた舟は,夜,向い風に翻弄されていた.イエスが湖の上を歩いて近付いて行ったのは,彼らを助けるためではない.目的は別にあった.4:39では「黙れ,静まれ」の一言で自然の猛威を静める神の権威を現されたイエスが,ここでは,〈そばを通り過ぎ〉(48)ることで神であるご自身を弟子たちに現す.「通り過ぎる」とは,神顕現の特有な表現である(出33:19,22,Ⅰ列19:11)
* 神としてのイエス様の顕現に恐れる弟子たち。
言い伝えでは湖で幽霊を見ると死ぬと・・・。だから弟子たちはおびえたと。嵐で亡くなった人も大勢いただろう。異常な現象に心が開かれていない弟子たちは幽霊だと思い、恐れて叫び声をあげた。思いがけない事態に直面した時に私たちも不安に思い、恐れることはないか。すべてはイエス様の支配の中にある。それは私たちを滅ぼす幽霊ではなく、助けてくださるイエス様である。
Ⅲ 心を開き、悟ること 50~52節
6:50 というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。
6:51 そして舟に乗り込まれると、風がやんだ。彼らの心中の驚きは非常なものであった。6:52 というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである。
パンの奇跡を見た弟子たちはイエス様がどなたか知るべきだった。イエス様は全能の神の御子、救い主。風をも支配される。〈恐れることはない〉も,神がご自身を顕現される時に頻繁に用いる言葉である。 だが,イエスの意図は弟子たちには通じなかった.彼らは神顕現を幽霊だと思い,おびえた.疲労困憊(こんぱい)した弟子たちが見た夜の湖での出来事である.
やむを得ないとしても,問題は51節である.イエスを舟に乗せた時,風はやんだ.だが,それと対句表現になっているのが,依然おびえている彼らの心中である.風は静まったのに,心は騒いでいる.理由は52節にある.驚きも,おびえも,彼らがいまだにイエスがいかなるお方であるかを悟らない不信仰に起因していた.「心のかたくなさ」は3:5でパリサイ人に対して用いられているほど深刻なものである.奇蹟を目の当りにしても,霊の目が開かれなければ,悟ることは出来ない.
祈り:イエス様。あなたは全能の神の御子です。あなたがいてくださればなにも恐れることはありません。どうか私の心を開き、悟らせてください。アーメン