荒野の聖所 詩篇63 2015/10/01

 

ダビデの賛歌。彼がユダの荒野にいたときに。表題及び11節から,この詩篇はダビデ王がアブシャロムの謀反によってエルサレムから一時逃れて荒れ野にいた時が背景となっていることがわかる.不自由で困難な中でも,信仰者にとって神との交わりには不自由はない.荒れ野の中で神を仰ぎ見ることが出来る。

 

Ⅰ 切に神を求めるダビデ(荒野に自分の聖所を持った)1,2節

 

63:1 神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。

1節.〈私の神〉は〈ヘ〉エリーで,力ある神に対する信頼の呼びかけである.〈切に求めます〉は,70人訳では「朝早く」と訳されている.元来「夜明けを待ち望む」という意味であったという説明がある.〈気を失うばかり〉とは神を慕う者の気持が強調された表現で,ここだけに用いられている

 

63:2 私は、あなたの力と栄光を見るために、こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。

2節.〈聖所で〉はエルサレムでの礼拝のことであるが,現在は荒れ野の中で礼拝している.しかし,荒れ野の礼拝もエルサレムでの礼拝と同じ豊かさを持っている.大切なのは神を慕い求める熱心である

* 神のおられるところが聖なるところ(出3:5)神を礼拝するところは聖い場所 ダビデは荒野でも礼拝する自分の聖所を持っていた。主ご自身を飢え渇き求めていた。

 

Ⅱ いのちに勝る神の恵み 神の恵みの素晴らしさ 3節

 

63:3 あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。

3節.〈恵み〉は〈ヘ〉ヘセドで,それは神との契約関係に基づく神からの恵みであり,愛である。3‐8節は,エルサレムを離れた場所での神との交わりの豊かさを述べている.そこでは祈りと賛美と瞑想が与えられている.荒れ野は神との交わりの場である(参照エレ2:2,エゼ20章,ホセ2:14)

* 実際のところ人は神ご自身よりも神の与えてくださる祝福を求めている。苦しみの解放、平安や病気の癒し、貧しさからの脱却を求めて神のところに来る。そして問題が解決すると神のもとを去る人々もいる。しかし、解決を求めてあちこちに行かなくても神の元にはすべてがある。大事なことは神ご自身を求めること。神との親しい交わりを経験したダビデはそれが命よりも尊いと。

 

Ⅲ ダビデの賛美と感謝 荒野にあっても神への賛美と感謝を 4~11節

 

63:4 それゆえ私は生きているかぎり、あなたをほめたたえ、あなたの御名により、両手を上げて祈ります。

63:5 私のたましいが脂肪と髄に満ち足りるかのように、私のくちびるは喜びにあふれて賛美します。

63:6 ああ、私は床の上であなたを思い出し、夜ふけて私はあなたを思います。

63:7 あなたは私の助けでした。御翼の陰で、私は喜び歌います。

63:8 私のたましいは、あなたにすがり、あなたの右の手は、私をささえてくださいます。

63:9 しかし、私のいのちを求める者らは滅んでしまい、地の深い所に行くでしょう。

63:10 彼らは、剣の力に渡され、きつねのえじきとなるのです。

63:11 しかし王は、神にあって喜び、神にかけて誓う者は、みな誇ります。偽りを言う者の口は封じられるからです。

 

ここには神の守りに対する確信が告白されている。神の恵みを覚え,感謝と賛美をささげることは,必然的に神への祈りに導き,神の御旨に従う願いを起させるダビデの祈りは賛美と喜びに満ちたものであった。しかも荒野において。私たちの祈りはどのようなものか再点検しよう。夜の更けゆく時、黙想の祈り。テレビやネットや興味を引くものがあふれている中で神を黙想することを選ぶ。ダビデは過去の神の守りを覚えて,ひな鳥が母鳥の翼の陰にいるように安心出来ると告白する。神の〈右の手〉とは力強い確かな守りを確信する表現.神との交わりは父と子,母と子の関係である。彼の身は荒野にあっても信仰により、主の聖所に行き、主の御翼の陰 のささえの中にあった。ダビデのように忙しい中にも自分の聖所を持て。神ご自身が私たちの必要とするすべて。癒しも平安も、全ての祝福も。

 

祈り:天の父なる神様。ダビデのように荒野にもあなたと交わる聖所をいつも確保することができますように。アーメン

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