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罪人の救い主 ヨハネ8:1~11 2014年7月17日
イエス様のもとに姦淫の現場で捕えられた女が連れて来られた。パリサイ人はイエス様を陥れようとした。このような女をどうするかとイエス様に詰め寄った。
Ⅰ すべての人は罪人 1~9節
姦淫はモーセの十戒の中でも禁じられ(出20:14),違反した場合には死刑に処せられた(申22:22)。イエス様はそれが罪でないとは一言も言わない。しかし,ここで律法学者、パリサイ人がイエス様のもとへやって来たのは,「イエス様を告発する理由を得るため」であった。もし,女を赦せば,それは明らかに律法違反者としてイエスを捕える口実となる。石を投げろと言えばイエス様の教えてきた愛と赦しに反する。イエス様を逃げることのできないわなにかけようとした。姦淫の女は確かに罪人、しかしそれを石打にして殺せと迫る律法学者、パリサイ人も神の前には裁かれなければならない同じ罪人である。イエス様は,罪のない者が最初に手を下すように言う。姦淫は罪、しかし、情欲を抱いて女を見る者は姦淫を犯した者。殺人は罪、しかし、人を赦さないこと、憎むことも神の前には同罪。偽ることも、盗むことも神の前には罪。そしてどんなに小さいと思われる罪も神の前には死に値する。人間は誰も人に石を投げる資格のある人はいない。
Ⅱ すべての罪人を赦されるイエス様 10,11節
姦淫の現場でつかまえられた女の恥ずかしさ、苦しさ。イエス様は身をかがめて、指で地面に書いておられたのはあられもない格好の女から人々の視線をそらす、守るため。絶体絶命の逃げられないわなもイエス様は脱出の道を持っておられる。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエス様がひとり残された。イエス様は罪に定めるためではなく、赦すために来られた。イエス様は言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。」女はそのままそこにいた。なぜ逃げなかった?主の前から去らず主の処分を待った。このようにありのまま主の御前に出て主のあわれみを待つ砕かれた魂は、恵みを受ける。この女の悔恨の情を主はご覧になって、その罪を赦された。
なぜイエス様は女を罪に定めなかった。自分がその罪の責めをすべて負われた。十字架の身代わりのゆえに赦される!どのような罪もキリストは赦される。しかし、イエスが十字架の上でその罪の罰をすべて引き受けてくださったことのゆえに赦されるのである。
Ⅲ 今からは罪を犯さないように 10、11節
そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」救われた者は罪の中にとどまらない。赦し、受け入れることはその行動を是認することではない。イエス様ほどきよい方はいない。イエス様ほど罪を憎まれる方はない。その罪のためにイエス様は十字架にかかり命を捨てられた。イエス様の赦しは罪を犯すための免罪符ではない。今までの罪は私が引き受けてあげるから、今後は罪を犯すなと言うのが、イエス様の私達に対する願いである。イエス様の願いは罪を犯さなくなるようにと言うこと。罪赦された者としてイエス様に対し真実に、罪を犯さないように生きていくということが大切。この女の人がその後どう生きたか?同じ生き方はできなかったはず!
祈り:私の罪のために十字架にかかられた主イエス様。どうか私が人に石を投げる者となりませんように。主の赦しを感謝し、自分の罪を悔い改める者とならせてください。アーメン